人情横丁の歴史

人情横丁と堀

 かつて人情横丁がある場所は堀でした。
江戸時代には新津屋小路堀と呼ばれ、1872(明治5)年に町名や通り・堀の名を分かりやすくしようと
新潟県令(県知事に相当)が「二番堀」と改称しました。

 この堀は、新潟町が現在地に移転した江戸時代前期に信濃川から寺町堀(現在の西堀)にかけて掘られたものです。
当時、川幅の広い白山堀が米を運んでいたのに対して、新津屋小路堀は野菜の堀であり、
新津屋小路堀を挟んだ本町通では朝市が立ち農家の女性たちが野菜や穀類を運んでは売っていました。
昭和には、荷の揃った午前8時になると鐘が鳴り、商人たちが品物を求めて集まったそうです。

 戦後、新潟市は堀や橋を精力的に整備し、1950(昭和25)年には東堀と他門川の間を埋め、3年後には東堀と西堀の間も埋めました。
この埋め立て地は、本町通上市場の整備に当てられることになり、
1951(昭和26)年に本町通で商いをしていた露店商たちがここに移転して店を開きました。
これが「人情横丁」の始まりです。

 当時は生鮮食品中心の約80店舗が軒を連ね、年末などは拡声器で誘導するなど大勢の人が集まり前に進めないほど賑わいました。
みなの団結力も強く、新潟まつりの行事の一つであった仮装大会にも積極的に参加し、機運を盛り上げていました。

人情横丁のまちなみ

 創立当初の屋根は直線的なデザインでした。1956(昭和31年)創立五周年を迎えるにあたって、「ヒサシを理想的なものに新調する」と当時の役員会議事録に残っており、現在のギザギザ屋根になりました。
 その姿が今も残り、人情横丁を象徴する顔になっているのです。

人情横丁と白龍大権現

 人情横丁の真ん中に、「白龍大権現」があります。 
 この場所に社殿を構えたのは1953(昭和28)年、二番堀空き地に社殿を建立、
三島郡大河津に漂着した御神体を鎮座したことによります。
 商売繁盛縁むすびの神様として奉られ、近隣の商人や縁結びを祈願する人たちが訪れます。
 そのご利益により良縁を授かったとお礼参りにいらっしゃる方もいるそうです。
 いろんな人の縁をつむぐ神様、ぜひ足をお運び下さい。

人情横丁のシンボルマーク

 設立当初、「日の出の勢い」をイメージして作られたマークです。
 澄みきった空に真っ赤な太陽の光がさんさんとふりそそぐ人情横丁、
先人たちの商売繁盛の願いがこもっています。